塩田町商工会>地域情報>和泉式部伝説

平安時代の女流歌人和泉式部は、肥前の国、杵島歌垣の麓にある福泉寺で生まれて、間もない赤ん坊のとき塩田郷の長者、大黒丸夫婦にひきとられました。
赤ん坊は『御許丸』と名づけられ、とても大事に育てられました。
御許丸は大変利口で、幼少のころ、古今和歌集の有名な歌をすらすらと言うことができたそうです。
また、このころから歌詠みができるようになっていたそうです。
ある日のこと、御許丸が木綿の実を摘む手伝いをしていたら、通りかかった勅使から
「その綿、売るのかね?」
と、問い掛けられました。すると御許丸は、たちどころに

君が望む その木の綿は 川瀬住む 鮎の腹にぞ宿りぬかな

と、即吟の和歌で答えました。
肥前の国の天才少女のことは宮廷にも聞こえ、御許丸は宮中に召し上げられることになりました。
御許丸が九歳の時のことでした。
都での御許丸は、歌人としての素養をすっかり身につけ、黒髪の美しいとても魅力的な女性として成長して行きました。

やがて、宮廷へお仕えするようになった御許丸は「和泉式部」と名づけられ、歌人として多くの秀歌を詠むようになりました。

このころ、宮仕えの同僚には、女流文学者の紫式部や清少納言、赤染衛門などもいました。
美貌の女流作家として、名声の高まった和泉式部は、世の男達の憧れの女性で、あちこち浮き名も立ちました。
中でも、敦道親王との恋愛は有名です。和泉式部は、宮さまと熱愛のいきさつを、二人でかわした140首からなる贈答歌を中心に回想し、日記風に書いた物語が「和泉式部」です。
都に住むようになってからの和泉式部は、遂に一度も塩田郷に帰ることはありませんでした。しかし、大黒丸夫婦のことは片時も忘れたことはなく、望郷の念はつのるばかりでした。
宮中のある歌会で和泉式部はその心情を

ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や きしまなるらむ

と詠い天皇さまにささげました。
天皇さまは、この秀歌に大変感動され、ほうびに「五町歩の田んぼ」をくださいました。
大黒丸夫婦は、天皇さまからいただいた「五町歩の田んぼ」のおかげで、老後は何不自由なく暮らすことができました。
そして、その恩恵を村の人たちにも分け与え、村中が大変豊かになったそうです。
今も続いている「和泉式部まつり」はその感謝祭とも言われています。
晩年の和泉式部は、出家し全国を巡礼の旅に出ますが、北陸の旅の空で、ひっそりと生涯をとじたといわれています。

いつの日か肥前のふるさと塩田郷にたどりつきたいとひそかに念じていたかもしれません。