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塩田職人組合
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塩田津の歴史

古代 【古墳・飛鳥・奈良・平安時代】
獅子ヶ塔古墳群が現塩田工業高校台地に点在
  • 708年(和銅元年) 真言宗「常在寺」が開基 
      全国で「風土記」の編纂が始まる
      「肥前風土記」に「潮高満川(しおたかくみつるかわ)」が登場 現在の塩田川と推測される
  • 835年(承和2年) 塩田津の鎮守として「丹生神社(たんじょうじんじゃ)」が大和の国より分身される
  • 和泉式部伝説からわかること
    和泉式部伝説からわかること 和泉式部の伝説は中国地方以西の多くの港町に残っています。その港町は、古くに栄え平安の都との交易が盛んであったという特徴があり、伝説の残る「塩田津」もまさにそのような港町であったことが伺えます。塩田を含む筑紫平野は干満の差の大きい有明海を干拓して得られた非常に広い平野です。当時の海岸線は現在のそれより5〜15kmほど内陸にあったものでしょう。塩田津も、塩田川を少し下ればすぐに有明海に出られたといいます。塩田の人々は、海路鹿児島を周り近畿地方の国々との交易を盛んに行っていたものと考えられます。

    中世〜近世前期 【鎌倉・室町・江戸前期】
    「生蓮寺」.「蓮生院」.「本応寺」.「立伝寺」の寺院が創建され、この地域は、蓮池藩領に属した政治都市として機能してきた
    面浮立のいわれ
    面浮立のいわれ 戦が絶えなかった時代のことです。見回りの兵列が里に差し掛かったところいきなり鬼が出てきて大騒ぎ。隊列は崩れ、兵は慌てふためき皆物陰に隠れてしまいました。鬼はきょとんと立ちすくみ、おもむろに顔をとりました。なんと里の子供が鬼の面をつけて遊んでいたのでした。隊長はそのことを恥ずかしげに殿様に報告しました。殿様はその話を笑いもせずに真剣にお聞きになられ、ある命令を下されました。その数日後に隣国の兵隊が攻め込んできました。相手は数千、こちらは数百。しかし、見事に迎え撃ち大勝利を得ました。
     殿様の命令というのは「鬼の面を着けお囃子の指揮にあわせて戦をせよ」というものでした。敵兵は鬼を見るなり一目散に逃げ出し隊列も総崩れ、隊長をも置き去りにしててんで戦にならず、両軍とも一人の死者も出すことなく勝ったということです。以後、鬼の面を被り浮立を踊るのを「面浮立」として、豊作と安全を感謝し秋に神社に奉納するようになりました。

    近世後期〜近代 【江戸後期・明治・大正・昭和初頭】
    肥前窯業地帯の港湾都市として繁栄してきた
  • 1691年(元禄4年) オランダ商館よりケンペル氏が塩田を訪れ、「煙の街」と記録する
    (窯が多く煙突が街中にたくさんあったため)
  • 居蔵造ができる背景
    居蔵造ができる背景 塩田は重厚な町並みを持っています。火事に強い「居蔵造」がそれです。塩田は「長崎街道塩田宿」として栄えていた1700年代に5度も大火にみまわれた記録が残っています。その大火で失われた町家は約250戸にも及びます。そんな大火から逃れるために考え出されたのが「居蔵造」です。現存する居蔵造の建物は17戸。そのうち最古のものは1790年に建てられた吉富家住宅です。
     そんな重厚な塩田の町並みは、家の持ち主が亡くなったり後継者がいなくなっても、その重厚さ故にとり壊されることなく、誰かが受け継いで住むようになり、町並みがなくなる事はありませんでした。そうして受け継がれ、廻船問屋や旅籠、住宅として利用されてきました。町並みは平成17年に伝建地区に指定されています。
  • 1905年(明治38年) 武雄〜祐徳稲荷神社(鹿島市) 区間に祐徳馬車軌道が開通
      同じ頃、塩田〜嬉野 区間に軌道が走る (塩田は陸路・海路で集散地として機能する)
  • 1927年(昭和2年) 塩田川下流に百貫橋が架かり、国鉄長崎本線が全面開通する
  • 1931年(昭和6年) 軌道の廃止(バスへ移行・停車場という地名が残る)
  • 軌道と町並み
     軌道を走らせるには長崎街道の塩田宿の街中部分は狭く、家を山手のほうに2間(約4m)ほど移動させることになりました。その結果、当時では広すぎるほどの街道ができあがりました。

    経済の中心の移り変わり
    経済の中心の移り変わり 百貫橋ができるまで塩田川に掛かる橋でいちばん下流にあったのは塩田橋でした。したがって海からの流通経路と陸の流通経路が交わる塩田宿は今では想像もできないほど賑わっていたといいます。60代の方に聞くと、塩田の中心部に競馬もできるグラウンド、大規模な軍需工場、高い煙突の窯元、劇場のち映画館、パチンコ店まであったそうです。塩田銀行もありました。商工業施設から軍の施設、娯楽施設にいたるまで揃っていました。
     昭和になり鉄道が発達し陸運が活発になる頃、塩田橋の下流3.5kmに百貫橋が架かり国鉄長崎本線が全面開通しました。それまで塩田津を経由して取引をされていたものはほとんど鹿島を経由するようになり、鹿島が経済の中心となりました。上流の塩田津まで上って来ていた帆船は、帆をたたんだり小船に荷物を積み替えないと百貫橋の下をくぐれないため、だんだん上らなくなってきました。それが大きな要因となり、塩田津の海運は徐々に衰退していきました。その結果、塩田宿で豪を成した商人は町内から出て商売をし、町家はいつの間にか住宅と化していきました。
    経済の中心の移り変わり経済の中心の移り変わり経済の中心の移り変わり

    現代  【戦後昭和・平成】
    記録的な大水害
     別名「暴れ川」といわれる塩田川は、大雨により度々堤防が決壊し、周辺の村々を水害で悩ませたという記録が残されています。大水害は戦後が多く、昭和24・28・31・37・45・47・51・57・平成2年と9回もの記録が残っています。
     記憶に新しい平成2年は、場所によっては道路脇のガードレールが見えなくなるほど冠水し、床上浸水した家屋も多く、農作物も甚大な被害を被りました。
     以後塩田川は護岸工事が急ピッチで行われ、数箇所に堰が設けられました。しかし、近代技術が自然に必ずしもマッチするとは限りません。実際、昔の優れた治水の技術を見直そうという声もあります。